メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
メロスには政治がわからぬ。メロスは、ただの高校生である。本を読み、ゲームをして暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスが市に来て見ると、市民たちは皆、王を恐れ顔色を為て居た。或る者は云った。「今年もそろそろ米の不作でございますね」すると別の者が答えた。「御覧なさい。あすこに王がお見えです」その指さす方を見ると、なる程、其処には全身黄金づくりの、眼も眩むばかりの、恐ろしい姿態をした男がいた。
メロスは何時迄も何時迄も其れを見つめていた。見つめながらメロスの心の中には、何やら怪しき雲行きが起って来た。即ちそれは、あの男が何をするのかと云うことに対する不安であった。そこでメロスは走り出した。
「おい待て!」一人の警吏が呼び止めた。メロスが振り向いてみると、そこには先刻の黄金作りの男が立って居る。男は云った。「お前は斯う云う者か」男は一枚の顔写真を見せた。其れは先ず間違いなくメロスの写真だった。
メロスは答えた。「そうだ。僕は斯う云う者だ」
「嘘をつけ。こんな奴は見たことがない」
「いや本当だ。僕だ」
「えへん! では訊くが、お前は何故そんなに急ぐのだ」
「急いではいない。只僕の家はこの近くだから早く帰って寝たいだけだ」
「ふん。怪しい奴め。本当のことを云え」
「本当のことだ。僕はこれから家に帰って寝るんだ」
「よしわかった。それなら証拠を見せろ」
「どんな証拠だ」
「そんなことは自分で考えろ。とにかく何か見せるものがあるだろう」
「何もない」
「嘘をつくな。貴様のような不敬な人間は生かしちゃおけねえ。ひっ捕らえろ」
「何をする。放せ、放せ。僕は本当に家に帰るだけなのだ。信ぜよ、僕は無実の人間だ」
「うるさい。引っ立てろ」
こうしてメロスは縛られて引き立てられた。縄目がきつく胸に食い込むのを感じながら、メロスは走った。そして漸くのことで縄目を解いて貰えたときはもう夜になっていた。
メロスが町を出るとき、人々は口々に、「気をつけて行けよ。王はきっと無理難題を押しつけるぞ」「大丈夫かなあ、あんなに走って」などと話し合った。メロスは腹立たしかった。しかし其の怒りを堪えて走り続けた。
暫く行くと俄かに空が掻き曇り、疾風が吹き始めた。雨まで降って来た。これでは到底走れぬ。メロスが途方に暮れていると、一台の馬車が通りかかった。
「どうした? 乗せて行こうか?」御者が尋ねた。
「頼む。乗せて行ってくれ」
「いいともさ。乗りなさい」
そうして馬車に乗り込んだメロスが座席に落ち着く間もなく、たちまち激しい雷鳴と共に天から大粒の雨が落ちて来た。馬は怯えて立ち上がろうとした。それを御者が鞭でぴしりと打つと、馬はいななきながら駆け出した。
風はますます激しくなり、雨はまるで滝のように車軸を叩きつけた。それでもメロスは、もう少しだ、もう一息だと自分に言い聞かせながら、歯を喰い縛って進んで行った。メロスの心の中に、今までになかった新しい感情が萌していた。それはメロスにとって、全く未知の感情であった。メロスは今や恐怖を忘れていた。メロスは怒っていたのである。
その頃シラクスの町では、メロスの家にも城からの使いが来て、大騒動の最中であった。使いは大声で呼ばわった。
「メロス、メロス、出て来なさい。王さまがお呼びだ。疾く来い」
けれどもメロスは最早、使者の言葉などに耳を藉さず、ただ一言、
「無礼者!」と叫ぶや否や、扉を蹴破って、疾風の如く飛び出して行った。
第七章 メロスの弁明さて、それから二三日後のことである。メロスの家では依然として大騒ぎが続いていた。何しろ相手は王様である。どう対処していいのか誰にもわからない。皆が皆、右往左往するばかりである。そんな折も折、一通の手紙がメロスの許に届けられた。
差出人は王の近臣の一人である。手紙の内容は大体次のようなものであった。
「王の御命令により、貴殿を拘引致します。万一御来駕なき時は、貴殿の家宅を捜索させて頂くことになります。何卒速かにお越し願いますようお願い申し上げます」
これを読んでメロスは激怒した。必ず、あの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。本を読み、ゲームをして暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスが市に来て見ると、市民たちは皆、王を恐れ顔色を為て居た。
「おい待て! 何を騒いでいる」
「貴様は何だ」
「俺はメロスだ」
「なに、貴様がメロスだと。では何か証拠を見せて見ろ」
「俺の顔を良く見よ」
「ふん。なるほど、言われてみれば確かに似ておるわい」
「そうだろう。これで俺がメロスであることが判ったろう」
「いや未だ信用出来ん」
「よし、それならお前の目の前で、今此処で腹を切って見せようじゃないか」
「いらん、いらん、そんなものはいらん」
「それではどうしたら俺を信用するのだ」
「そうだなあ……まあ良い、一応信じてやろう。それで一体何の用があって来たのだ」
「用件は一つしかない。王に伝えてくれ。私はお前が要求するような人間ではないとな」
「うむ、善かろう。その旨伝えておくから安心しろ」
二人はそこで別れた。メロスは直ちに出発した。一刻といえども無駄に出来ないと思ったからである。幸い雨も上がって日も照って来たので、メロスは一気に道を急いだ。そして遂に日が暮れる頃、メロスは再びシラクスに着いた。町に入る前にメロスはもう一度、家々の戸口を叩いて回って、自分の無事を告げた。そして町に入ると真っ直ぐに王宮に向かった。門番が誰何すいかした。
「止まれ、何者だ?」
「私だ」
「だから誰だ?」
「だから私がメロスだと云うのだ」
「何? お前がメロスだって? 嘘をつけ、お前はメロスではないぞ」
「何故、嘘だと云うのだ」
「本当のメロスなら、俺なんかに止められはしないからな」
「馬鹿を云うな。本物のメロスだったら、今頃はとっくに王宮に着いているだろうさ」
「いいや、まだ着いていない筈だ」
「何でお前にそれがわかるんだ」
「さっき聞いたばかりだからだ」
「誰に?」
「町の門にいた番兵にだ」
「お前、本当は偽者だろう」
「どうしてそうなるんだ? 本当に本物なんだ」
「じゃあ訊くが、お前は一体何者で、何処から来たんだ?」
「僕はメロスだ」
「だから、それはわかっている。姓名と住所を云え」
「僕の名はメロスだ」
「それはもう判っている。もっと詳しく云ってくれ」
「名前はメロス。住所はシラクスの町三丁目一番地だ」
「番地までは訊いてない。地名だけでいいんだ」
「シラクスの町の三丁目で一番地のメロスだ」
「ふむ、間違いないようだな」
「当たり前だ。早く通してくれ」
「いいだろう、通っていいぞ」
メロスは無事に王宮に入った。そしてすぐに王の御前に罷り出た。王は大層機嫌が良く、にこにこ笑いながら迎えた。
「やあ、よく来てくれたね。さあ、そんな所に突っ立ってないで、こっちへおいでよ」
メロスは平伏した。
「どうかお楽になさって下さい」と王が云った。
「はっ、有難うございます」とメロスは云った。
「君は確かメロス君だったよね?」
「違います。それは僕ではありません」とメロスは嘘をついた。
「えっ、違うの? でも、君の家にメロスって云う人が住んでいる筈だよ」
「いえ、それは僕の兄です」
「お兄さんなの?」
「そうです」
「うーん、困ったなあ。まあいいや、それは後で考えるとして、実は君に頼みがあるんだ」
「どのような御用件でしょうか?」
「うん、実をいうとね、この国は今年ひどい不作でね、国民たちが食べるものが全然足りないんだよ。それで王様は考えたんだけど、この国の人たちみんなを養うだけの食べ物がないのなら、いっその事、みんなで飢え死にしちゃえばいいんじゃないかって思ったわけさ。ねえ、どう思う?」
「どう思いますかって、そりゃあんまりじゃないですか。いくら何でもひどすぎますよ」
「そうかなあ、そう思うかい?」
「当然ですよ」
「そうかなあ、そうかなあ、君がそういうんなら仕方ないなあ……」
「何が仕方ありません?」
「ううん、何でもない。こっちの話だ。ところで、このことを大臣たちに話したら、ひどく怒ってしまってね、『そんなことをすれば国民の信頼を失います』とか何とか、あれこれ文句をいうものだから、つい僕も腹が立って、思わず、『うるさい! もうお前たちには頼まん!』って怒鳴っちゃったんだよね。すると、あいつら何て言ったと思う?
『そうですか、それは結構でございます。どうぞご勝手になさいませ』だって。もう頭にきちゃって、もう顔も見たくないから、あいつ等を全員クビにしちゃった」
「それはまた思い切った事をなさいましたな」
「ああ、あの時は本当にいい気持だったな。だけど今になってみると、やっぱり悪いことをしたと思ってるよ。何せ、あいつが居なくなっちゃったからね。新しい大臣を探さないと駄目なんだよね。ところがこれがなかなか見つからないんだ。誰かいい人は居ないかなあ」
「はあ……そうですねえ……ええと……あっそうだ! 一人いい人がおりますよ」
「本当? それは良かった。で、どんな人?」
「それはですね、まず第一に頭がいいこと。それから家柄もいいし、財産もあること。それに何よりも強いことですな」
「ふうん、それだけ揃っていれば申し分ないな。それでその人は今何処に居るの?」
「ここに居ります」
「ここって、此処に居るのかい?」
「ええ、此処ですとも!」
「ふーん、その人の名前はなんていうの?」
「名前ですか? ええっと……そうそう思い出した。メロスという名前です!」
第七章 メロスの弁明さて、その頃メロスの兄は妹の結婚式を挙げて居た。相手は勿論、兄の友人である。メロスも招待されたが、「自分は忙しいので行けない」と言って断った。
やがて宴も終わり、メロスは家に帰ることにした。その途中、メロスは一人の女に呼び止められた。
「もし、ちょっとお待ちになって」
メロスは立ち止った。
「何か御用ですか?」女は云った。
「私は王様の妃ですが、少しお話をしたいことがありますので、一緒に私の家へいらして下さいませんか」
メロスは怪しんで訊いた。
「あなたは王様の奥さんでしょう。そんな偉い方が僕に何の御用があるのですか?」
「あなたにお話ししたいことがあるのです」
メロスは承知した。二人は女の家へ行った。家の中へ入って行くと、既に食事が用意されていた。テーブルに着くと女が口を開いた。
「先程はどうも失礼致しました。あなたが余り急いでお帰りになるものですので、ついついお引き止めしてしまったのですが、本当は用など無かったのです。ただあなたのような立派な方に一度お会いしたかったものですから、それでつい嘘をついてしまいました。お許し下さいましね」
「いえいえ別に気にしてはおりませんよ」
「そう仰有って下さると助かりますわ。それであなたのお名前を伺っても宜しいかしら?」
「はい、私の名前はメロスと申します」
「まあ! あなたがあの有名なメロスさんなのですね。噂に違わず立派な方ですわね」
「いやそれほどでもありませんが……」
「いいえ、そんなことございませんわ。それにしても一体どうしてあんなに急いで帰ってしまわれたのですか? 折角のおめでたい席なのに……」
「いや実は私にはもう一人妹がおりまして、その妹に急用が出来てしまったのですよ」
「まあ! お気の毒に……では今夜はその方の所へ行かれる予定だったのかしら?」
「まあそういうことになりますかね」
「それではさぞがっかりなさったでしょうね」
「いや、そんなことはありませんよ。こうしてあなたと食事をすることが出来たのですから、かえって幸運だったかも知れません」
「まあ、嬉しいことをおっしゃって下すって……でも、そんなにお世辞ばかり仰ると、却って嘘のように聞こえてしまいますわよ」
「嘘ではございません。私は決して世辞など申し上げません」
「あら、それでは本当なの?」
「もちろんです」
「本当に私と結婚なさるつもり?」
「ええ、そのつもりですが……いけませんか?」
「いけなくはありませんけど……でも……その……私達まだ一度もお目にかかったことがないのよ……それなのに結婚だなんて……」
「しかし一目見ればきっと気に入りますよ」
「本当にそう思っていらっしゃるの?」
「勿論ですとも」
「でも私はまだあなたのことをよく存じ上げないのだけれども……」
「それなら今から知ればいいではありませんか」
「それもそうね」
「そうですよ。何も心配することはございません。私達はお互いに愛し合っているのだから、結婚したからといって少しも不思議はないじゃありませんか」
「それもそうね」
「そうでしょう。ですから、さあ早く乾杯しましょう」
「何に?」
「二人の未来のためにですよ」
「わかりました。では、そういう事にしておきましょうね」
二人が杯を持ち上げた時、不意に戸を叩く音がした。そして扉が開いて一人の男が入ってきた。男はメロスと女を見比べて叫んだ。
「おい貴様! そこで何をしている!?」
第8章 メロスの言い分そして入ってきた男を見た途端、メロスは椅子から立ち上がった。そして憤然として叫んだ。
「何だお前は!? 無礼だぞ!! 名を名乗れ!!」
「俺はこの国の王だ」男が答えた。
「なに、お前がこの国の王だと? 嘘をつくならもっとまともな嘘をつけ」
メロスが怒鳴ると、王は怒り出した。
「嘘ではない。俺がこの国の王様だ。いいからそこに座れ。お前に話がある」
「話なら聞くまでもない。お前の話はわかっている。俺を牢屋に入れるつもりだな」
「そんな事はしない。俺はお前を歓迎するためにここへ呼んだのだ」
「嘘だな。どうせ俺の財産目当てなんだろう」
「何を言うか。お前はこの国一番の正直者だと聞いたから招いてやったのだ」
「誰がそんな事を言った? お前こそ嘘つきだろう」
「いいや、俺じゃないぞ。この国の大臣たちがみんなそう言っていたんだからな」
「大臣たちだって? そんな奴等のいうことを信用するのか?」
「信用するかしないかは俺の勝手だろう。とにかくお前はこの国の一番正直な男だということになっているんだ。だからお前を呼んだんだ」
「馬鹿馬鹿しい。第一、俺は自分の家を一歩も出ていないんだぞ。それが何故一番正直だということがわかるんだ?」
「それは簡単だ。近所の人達が皆そう言ったからだ」
「近所の住人が言ったのか? ならばそいつ等が間違っているんだ」
「そんなことはない。隣の家の者は、『あいつは真面目そうな男だった』と言っていたし、向かいの家の者も『あの人は正直な人だった』と言っているし、更にその隣の家でも『あの人には本当に世話になった』と言っているし、他にも『彼は誠実そのものでした』『彼ほど善良な男を見たことがない』などという奴が沢山いるんだよ」
「そんな馬鹿な事があるものか。大体、俺は今まで一度だって人に誉められたことなどないぞ。それどころか、人から悪く言われた事ばかりだ」
「そりゃそうだろうさ。何しろお前は嘘吐きだからな」
「違う、俺は嘘なんか吐かない」
「いいや、お前はいつも嘘を吐く男だ」
「いつ俺が嘘を吐いたというんだ?」
「さっきお前があの女に言った言葉を聞いたろう。あの時お前はこう言ったじゃないか。『一目見ればきっと気に入りますよ』と。だが、それは嘘だ。何故ならお前は最初から気に入らなかったに違いないからな」
「ああそうだとも! 初めから気に食わなかったよ!」
メロスは怒って怒鳴った。
「ほら見ろ、やっぱりそうじゃねえか。いいか、よく聞けよ。この世の中はなあ、顔や性格よりも金の方がずっと大事なんだ。つまり人間の価値というのは、どれだけ金持ちになるかという事によって決まるものなんだよ」